2016年05月24日

断・捨・離というけれど

熊本地震によって、何度もテレビに崩壊寸前の熊本城が映し出される。

石垣一列だけで崩れ落ちるのをなんとかふんばっている。

その修復は今後どれほどの作業、時間、お金がかかることだろう。

歩きながら今朝はその話しになった。

友だち二人は全部壊して、更地にして公園にするか、住宅を建てれば良いと言い放った。

その言葉にびっくり仰天したよ。

文化遺産とか歴史とか熊本城から有形無形の文化の空気のようなものを受け取っている、目に見えない豊穣さをどう考えているのだろうか?

私たちは飯を食って子供を産んで、自分だけが明日を迎えられれば良いってもんじゃあないでしょう。

目の前のことや、持っている金だけ、自分の身の回りのことだけなら、人間やってなくても良いぐらいだ。

友だちだから王女は反論しなかったが、本当にガッカリしたよ。

学校教育でも、音楽や美術の時間を減らして、受験に特化した科目だけに力を入れる。

目の前に必要なことだけの勉強では豊かでゆとりがあって柔らかい心を持つ人間が育たないと思う。

毎日のニュースを見るにつけ知るにつけ、以前では想像もしなかったような、凶悪な事件や親殺し、子殺し、まるで人間ではない悪魔の化身が起こしているような事件の続発。

自分だけが快楽なら良いという自分勝手な欲求。

自分以外のことに目を向けてみませんか? と提案したい。

合理的な断・捨・離 はいつ来るかもしれないとう(今朝の新聞記事にもあった)東南海大地震におびえて、なるべく生活を単純化して無駄をなくす生活を提案しているが、どうなんだろう?

極論すると合理的で無駄のない生活は、"文化" をないがしろにするところにも繋がっているような気がする。

私たちが生きて来られたのは、飯(めし)だけでなく見えない過去、先人の歴史の恩恵に浴しながら心の中の豊かさを育てて来たのだ。

すべてお陰さまなんだよ。
ラベル:いらいら
posted by アメリカハナミズキ at 15:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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