2022年07月31日
夫の居ぬま
今日は7月31日。
古河では3年ぶりの夏祭りで(2日を1日に短縮して)お神輿に神様をお乗せして、神主や町の世話役さんが紋付で軽トラに乗って町内をお通りになる。
我ら住民はお通りになる時刻に家の前に並んで軽トラ数台が通る道すがらお賽銭を持ってお見送りする。
それは午後3時半ごろだ。毎年暑い時間帯に日傘などさして神様のお通りをお待ちする。
そして今日はこちらも3年ぶりに腕組み殿下が所属している吹奏楽団の夏の定期演奏会の日でもある。
楽団員たちは長くコンサートが開けなかったので練習にも力が入っている。
それで昨日から通しのリハーサルで夜遅くまで練習。今朝も朝食後すぐにお城を出発。
殿下のお友達が聞きにきてくださるので、終わったら外で飲み会だそうだ。
妻の腕組王女はほとんど聞きに行ったことはない。
1日誰もいないお城でなーんにもしない日曜日。
お昼になったので、冷たい玄米ご飯をチンして、納豆をかけて、卵もかけて、5月に作った福神漬けの最後の冷凍を出してシャリシャリのままご飯に乗せた。
我が家で取れたささやかなきゅうりの糠漬けと先日仕上がった梅干の型崩れしたもの3個。
決して火を使わない。お茶も沸かさず冷たくしてある麦茶を飲む。
午後はずーっとパソコンで地球情勢をチェック。
3時半には忘れず外のお祭りに出よう。
お城の主人が留守ってことはこうも何もしない日になってしまうのか。
ということは、夫がいてくださるってことは毎日のご飯の支度も張りがあるってことか。
したいように暮らしてしまうよね いちにちくらいなら
それは宝物だけれど毎日だったら まずい。
ありがたいよね 気にしたり怖いと思う人がいてくれて
身を正せるって 何と無様な生き方になってしまうのかと
恐ろしいほど 調子が良いときは なんかしないではいられないのだから 何もしたくないときは なんか
身体のサインなんだよね 今はうごくな 好きなことだけしてろって といいような解釈で・・・
自分の中に神があるとは不遜な考えなのか?
自分の直感は正しく閃くものなのか?
些細なことも自分で決定したいのは、協調性のないわがままなことなのか?
決定できなかった頃の若い日々が懐かしいが。